いつかの遺失物係

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永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』(ちくま学芸文庫)

13歳の翔太は夏休みの最初の日、夢を見た。自分が何度も夢から覚めるという夢。その夢から覚めた翔太はそのことを猫のインサイトに話すと、賢いインサイトは、今が夢じゃない証拠はあるだろうか、と問いかけてくる。この本はそんな会話から始まる対談形式の哲学本だ。

哲学本といっても、これは過去の哲学者や思想家が言ったことを教えてくれるような本ではない。知識を知るための本ではなく、哲学的な問題を哲学的につきつめて考えていくとはどういうことか、という本である。まえがきの最初に「この本は中学生・高校生向きの哲学の本です。」「この本を読むにあたって、哲学に関する予備知識などはまったく不要です。むしろ、ないほうがいいのです。」とあるように、前知識や哲学史などはふまえずに、自分の頭で問題に直面していくことが求められている(しかし、この本が読める中学生がいるとしたらよっぽどすごいと思う)。猫のインサイトa.k.a.永井均)は、哲学史の勉強は哲学とは違うといい、哲学的問題を自分の頭で徹底的に考えることが哲学であると力説する。折に触れてデカルトヴィトゲンシュタインなど先人たちの考え方は紹介されるが、それを踏まえてさらに考えていくという姿勢だ。

対話形式でかつ平易な言葉で書かれているにも関わらず、この本は難しかった。根気よく同じ箇所を何度も読み返して反芻し、イメージしながら口に出してみてやっと、そこで交わされている話が理解でき始めるという感じ。読み飛ばすような軽い読み方ができず、必然的に本の内容と向き合うことが要求されてしまう。だからこそひとつひとつの話題を乗り越えていくことがエキサイティングだった。

この本で扱われる問題はたとえばこのようなことだ。
「自分の見ている世界は培養器の中の脳の幻覚か?」「自分以外の他人が心を持っていないとしたら?」「たくさんの人がいるなかで、ある一人だけが『ぼく』なのはなぜか?」「善悪や正しさとはなにか?」「みんなの見ている『赤』が『青い』ということは本当にありえるか?」「人間には自由意志があるか?」「死ぬとはどういうことか?」
どれも自分一人の頭で考えぬいても到底答えの出なさそうなことばかりだ。しかしインサイトの話についていくと、思っていたのよりずっと深く広いところまで考えが進んでいく。その結果答えがはじめに帰ってくることもあれば、消えていくこともある。しかし、読みながら必死についていったその歩みは無駄なものではない。むしろその部分が著者のいう哲学なのだと知らしめられる。

だが、正直この本を読んでいるあいだ、著者の言うように自分の頭で問題を考える余裕などない。ほぼインサイト(とそのスタンド永井均)に論破されるような読書経験だ。対談形式ということで永井均が中学生の翔太と猫のインサイトに人格を分けて書いているわけだが、二人とも頭が良すぎる。素直な疑問をもってインサイトに質問をぶつけていく翔太の方でさえ、飲み込み力と応用力が飛び抜けているせいで、授業で自分だけ置いていかれるような焦りを感じた。これが本でよかった…。それからインサイトは翔太に対しての態度がおかしい。翔太のするどいコメントに「さすがだよ、翔太。きみはほんとうに頭がいい。」と言ったかと思えば、翔太が少し的外れなことを言うと「翔太、きみはまったく頭が悪いね」と返す。そのあとも「翔太、きみはほんとうに頭がいいよ!」「翔太、きみはやっぱり馬鹿だね!」「むむ、翔太、きみはやっぱり切れ者だね。プロの哲学業者なみだ。」「翔太、きみは本当に馬鹿だね。それとも、ろくでもない学校教育がきみらをほんものの馬鹿に仕立てあげちゃうのかなあ。」…おい!!!毎回そんなこと言われたら翔太に移入して読んでるこっちは頭おかしくなるわい!!インサイトうざ!!!という気持ちになるので注意。

それはともかく、役に立つか立たないかというようなことは抜きにいろんな視点から物事を考えるのが好きな人にとっては、根気よくついていけば必ず面白い本なのでおすすめ。

個人的に感銘を受けた箇所は、翔太が「色と形が常に連動している世界、例えば『丸いものは必ず青い』というような法則がはたらいている世界では、色と形を個別の要素として分けて認識することができるだろうか」と考えるところ。こんなクレバーな発想ができるというのが哲学者の頭か…と思った。

 

 

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