蓮實重彦、黒沢清、青山真治『映画長話』

ここ5年くらい、自分のなかで映画への興味がゆっくりとわき起こり続けている。そんななかで少しアカデミックな映画評論を読んでみたくなり、ステップアップとして読みやすそうだからと手にしたのがこの本だった。もともと「三人の装丁」という展示で目にし、パラパラ読んでみると面白そうだったのでこれは今度買おう、とメモっていた。ブックデザインは服部一成と山下ともこ。
 
かつて立教大学蓮實重彦が行なっていた「映画表現論」という授業があって、その受講者から何人もの映画監督が生まれた、ということを恥ずかしながらもこの本で初めて知った。その中におり、蓮實重彦の授業に多大な影響を受けたと語る二人と、「先生」蓮實重彦が(特にリアルタイムの)映画について語り続ける鼎談本。鼎談は2008〜2010年にかけて行われたものだ。
他人の目を通して知らない世界の見方を獲得する、ということがおそらく好きな自分にとってはかなり面白い本だった。なぜなら、自分もほんの少しは見てきたはずの映画に対して、この本で三人が言っていることの意味が全然わからなかったから。つまり同じ映画を見ていたとしても、見えているもの
ここ5年くらい、自分のなかで映画への興味がゆっくりとわき起こり続けている。そんななかで少しアカデミックな映画評論を読んでみたくなり、ステップアップとして読みやすそうだからと手にしたのがこの本だった。もともと「三人の装丁」という展示で目にし、パラパラ読んでみると面白そうだったのでこれは今度買おう、とメモっていた。装丁は服部一成
 
かつて立教大学蓮實重彦が行なっていた「映画表現論」という授業があって、その受講者から何人もの映画監督が生まれた、ということを恥ずかしながらもこの本で初めて知った。その中におり、蓮實重彦の授業に多大な影響を受けたと語る二人と、「先生」蓮實重彦が(特にリアルタイムの)映画について語り続ける鼎談本。鼎談は2008〜2010年にかけて行われたものだ。
他人の目を通して知らない世界の見方を獲得する、ということがおそらく好きな自分にとってはかなり面白い本だった。なぜなら、自分もほんの少しは見てきたはずの映画に対して、この本で三人が言っていることの意味が全然わからなかったから。つまり同じ映画を見ていたとしても、見えているもの、見ようとしているものが全然違っていた。
 
この本のなかで頻繁に言われる文言として、「ショット」というものがある。読んでいくと、この三人のあいだでは「ショット」が、一般的な意味でのショットよりも限定的な意味で使われていることがわかってくるのだが、それは三人のあいだで定義が共有されているだけで、読み進めるうちになんとなくわかるようなわからないような…というものでもあった。大雑把に言ってしまうと、映像として決定的なショット、あるいは記憶に残るようなショット、というような意味なのではないかと思う。例えばこんなふうに使われている。
 
蓮實 塩田さんもそうですが、わたくしが立教大学で教えたり一緒に時を過ごしてきた人たちは、今やことによると弱点なのかもしれないんですけど、全員「ショット」が撮れる人なんです。ショットが撮れて大企業になるというのはひじょうに難しいことだと思う。黒沢さん以下、もちろん周防正行さんも含めてね、ぎりぎりショットが撮れてしまう人たちの現在の立場が微妙になりはじめている。今やショットを撮れるということから離れなきゃいけない時にきているのかもしれない。ひじょうに微妙なのは、ことによるとイーストウッドもショットが撮れないのかもしれないという……。(p38-39) 

 

このように、初めはなんのことを言っているのか全然わからないのだが、とにかく「ショット」についての話は本全体を通して何度も何度もされるので、わからないなりにどういうものかが少しづつ見えてくる。とにかくこの三人は、(特に蓮實重彦は)画面に映し出されているものに目をこらして、映画の中に見えるものの話をしているのだ。
そして意外にも、何々を観て泣いた、といったことを結構口にする。といっても、素晴らしいショットや、監督の覚悟といったものに泣いていたりするらしい。
 
映画監督への評価も三人のなかでの共通の価値観ができているようなのだが、それが自分の想像していたシネフィルへのイメージとはまた違っていて面白かった。
 
黒沢 だれそれの時代と言いにくいとしても、僕たちの感覚には、今、映画の両極にゴダールイーストウッドがいる、ということがあるわけです。この二人が新作を撮っていることに抑圧もされ、安心してもいる。彼らがいるからまあ大丈夫だという思いと、どうせかないっこないんだという思い。この二人に対して今どういう態度をとればいいのか。そして、残念ながらいつかはこの二人もいなくなる。その後どうなるのか。
青山 それについて真剣に考え込んでいるのがスピルバーグじゃないかと……。
(中略)
蓮實 今、映画のこちらにイーストウッドがいて、あちらにゴダールがいるという図式を理解できる人は世界の映画関係者の0.001パーセントくらいしかいないでしょう。つまり、途方もないフィクションなんですよ。しかもそこにスピルバーグの名前を導入することで彼らを納得させるのはひじょうに難しいと思う。人は簡単にゴダールスピルバーグが嫌いじゃないかとか、つまらんことを言うわけですが、ゴダールが一番気にしてるのがスピルバーグだっていうのは見え見えですよね、いろいろな意味で。(p28-30)
蓮實 リンチやウォン・カーウァイはバカでも、いえ、誰でもわかったような気になる便利で誉めやすい映画なんです。ところが、スピルバーグは誉めにくいし、挙げるには勇気がいる。(p269)
 
ここだけ抜き出すと蓮實重彦が言っていることは選民思想っぽくも見えるが、この本を通して読むと、蓮實重彦は自分の映画の見方を強く信じた上で、現在の世界の映画批評や評価軸に対して異を唱える人が誰かいないといけない、と考えていることがわかる。
とはいえ、自分には上に引用した文章が具体的に何を言っているのかほとんどわからない。ただそういう見方があるのだということが知れるだけだ。だが自分にとってはそれも重要だった。
 
この本で、蓮實重彦に抱いていた先入観は大きく崩れ去った。どんな言論をしてきたかもほぼ知らないまま、ただアカデミックの権化のように見えていた人が、『トップ・ガン』の監督であるところのトニー・スコットを褒めちぎる一方で『タクシー・ドライバー』を「ひどい映画ですね」と言い放ってしまうような評価軸をもっていたとは全く知らなかったし、そこがめちゃくちゃ面白かった。
さらに、これまでぼんやり自分のなかに形成されてきた権威的な映画の評価軸みたいなものが、蓮實重彦への先入観とともに崩れていったとも言える。こういった価値観の変化が、自分にとっては大きい読書体験だった。
 
また、この本では「ショット」の他に「活劇」という見方にも出会った。彼らは「活劇」こそが映画の醍醐味であるというスタンスでほぼ一致している。その活劇とは単にアクションということでなく、個別のショットの持つ活劇性、というような抽象的なものでもあるらしい。(僕はそれを、ストーリーではなく映像そのものに感じるワクワク感やサスペンスのようなものと理解した。)
 
「ショット」「活劇」といったような見方の軸を手探りながらも自分のなかに取り込んで、実際に映画を観てみた時に何が見えてくるのか。それが楽しみである。
以前 黒沢清が、昔はビデオやDVDもなく、映画を観る時には忘れないように目に焼き付けるようにじーっと観ていた、と言っていた。そんな人たちが得てきた何かを自分が得るには、やっぱりじーっと画面を見つめるしかないのかもしれない。
 
それにしても、鼎談という形式は本当に読みやすい。まえがきで青山真治が鼎談について「無責任のシェア」や「武装解除」と書いているように、三人で語ることで、鋭さもありながら砕けつつ軽やかに話が弾んでいくのが良かった。
ここの本に出てくる観たい映画も山ほどできてしまったし、読んでいる時に借りてきて観た映画もある。観てから読むとまた違った印象で読めたので、この本はこれから何度も見返すことになるだろう。最後に付いている索引も嬉しい。
 
 
蓮實 (中略)みなさん方が声を大きくして、映画はものを考えさせるためにあるのではなく、考えていたことがぐらぐらと崩れるようなものこそが映画だということを言ってくださらないと、今後活劇は撮れなくなりますよ。(p329)

 

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