いつかの遺失物係

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ソーシキのケーシキ

数日前に、大学でお世話になったこともある教授のお通夜があった。入院していたことは知っていたが、そこまで悪いとは全く知らされておらず、突然の死に多くの人が驚いていて、自分も少なからずショックを受けた。

 

僕は結婚式に参加したことがない。僕が体験したことがあるのはフィクションの中の結婚式だけだ。だから僕が思い浮かべる結婚式は、ほとんどフィクションに出てくる結婚式のみであり、『卒業』や『ゴッドファーザー』などが僕の中の結婚式像の一端を担っている。それがいくら現実と乖離していようとも…。

法事もまたそうで、今まで参加したことある法事よりも圧倒的にフィクション内で見た法事の方が数が多く、それゆえ「法事とはこういうもの」という強いイメージを僕の中に残している。『お葬式』『サマーウォーズ』『犬神家の一族』『スパイダーマン』…いろんな法事がある。

しかし、フィクション内のイメージで法事に向かおうとすると多くの障害が出てくる。今回の通夜に際して自分がいかにそのディテールに無知かを知った。靴下の色や焼香の仕方、香典の包み方なんかは、映画を見ただけではもちろん身につくはずがない知識なのであった。

 

行ってみて感じたのは、「試されている…!」という感覚だった(もちろんその場の誰も参列者を試そうとなんかしていない)。

通夜に行ってこんな感想を持つのはあるべき状態じゃないのはわかってるが、実際にはそこのストレスが一番大きいもので、現在「同級生の多くが社会人として働いているが自分は違う」という状況に感じている負い目をより大きくするような超自意識膨張体験だった。

法事にもリクルートにも使って不自然ではありません、というような触れ込みを信じて買った大学の入学式用のスーツはうっすらとストライプの入ったもので、見回してみても周りの誰もストライプなんか入っていなく、それを一度気にし始めると、いてもたってもいられなかった。受付カードの「所属団体」の欄には書く情報がなく、他の人々が差し出す香典の封筒を確認して、またもや恥ずかしい気持ちに襲われる。ぎりぎりになって家から見つけ出した「何にでも使える」封筒に「御霊前」と書き込んだ香典には、他の人と違い、水引きがなかった。表にして出すのが急に恥ずかしくなり、つい裏面を上にして出すと、受付をしていた教授(知り合い)が「こういうのは表で出すんだよ」と善意で指摘してくれたのだが、恥ずかしさがマックスになって「あ、すみません」とヘラヘラしてしまった。相手はもちろん笑っていなかった。なぜなら通夜だから。ここでも落ち込む。

焼香の時は一番緊張した。かなりの人数が訪れる通夜であったため、とても長い列で焼香を待つ。ここでも恥をかきたくないという気持ちが強すぎて、ずっと前の人の焼香の仕方を真似しようと凝視していた。焼香が意味するものが何なのか、僕は知らない。自分は信仰を持っている自認はないが、親・祖父母がクリスチャンであることには大きな影響を受けている。それもあってか普段から寺社で手を合わせる習慣がないので、焼香して手を合わせ礼をするという弔い方はかなり馴染みの薄い行為なのだった。一挙手一投足をなぞるように済ませ、「今の俺にはこの動きに感情なんて込められないから!」という気持ちになりながらその部屋を出た。

 

法事には決まりごとが多い。僕の場合は、それに翻弄されて気持ちを消耗してしまった。だからといってそういうことはその場で言うのにふさわしくないのはわかっている。それに加え、あまのじゃくの気があるので周りのムードと自分の中でバランスをとるように、ドライであろうとしてしまった。これもあまり法事の場では表明しづらい態度だ。邪魔してはいけないと、悲しい顔をしている人からは離れてしばらく黙っていた。

そんなこんなで自分勝手に孤立した気分が、「社会人ではない自分」という心の隙間をめがけて侵入してきたので、故人の死を悼むのとはまた別の、変な落ち込み方をしてしまい、ちょっと困った。

 

そのあと、食事の用意されてあった場所で友達にこの気持ちを打ち明けてみると、(焼香について)「各々があの場で自由に弔えればいいのにね」という提案をしてくれた。「確かに!」と言いかけて、「やっぱりなし!」という気持ちになった。弔い自由形でも困る人が大勢出てしまい、結局は型を求めることになるだろうし。法事のややこしい様々な形式は、どんな人でもそれさえ守ればしっかり弔ったことになれる、という良さもあるということだ。

考えてみれば法事は合理化とは縁遠いジャンルの行事だ。細かい部分の合理化や便利化はされているが、そもそもが宗教的行事なので、行事それ自体が目的になっている。伊丹十三の『お葬式』では、そのしきたりに(まさに自分がそうだったように)翻弄される人々が描かれていて、それはそれで非常に人間的な感じがして良いものだった。だからといってすんなり受け入れられるようにはならないのだけれど。

 

結局のところ、こういうことにこだわったり、あまのじゃくだったり、自分は子供っぽいというのがわかる。